イギリスは1760年頃から1830年まで、トーリー党が政権を独占していたが、1820年以後はトーリー党内においても、カンニングのような自由主義派の勢力があらわれて、自由主義的な政策を実施するようになりました。
今回は、ウィトゲンシュタインを見出したバートランド・ラッセルの祖父であるジョン・ラッセルをキーワードに1783~1850年のイギリス政権に触れていきます。
■➀トーリー党の時代■
トーリー党の時代のひとつとして、ナポレオンと戦争する事になる小ピットがいます。
小ピットは1783年に首相になります。
アメリカ独立戦争にイギリスが負けるというカタチで終わり、独立戦争を指示していたホイッグ党が内部分裂し始めたことから始まり、時の王ジョージ三世の支持を得て、24歳という若さで首相になりました。
一方、この内部分裂しつつあったホイッグ党にはチャールズ・ジェームズ・フォックスが強い影響力を持ち、このフォックスの配下として数十年後ジョン・ラッセルは活躍し始めます。
小ピット自身は、1805年にネルソン艦隊によってトラファルガーの海戦でフランスに圧倒的勝利を挙げるも、ナポレオンによるアウエルシュタットの戦いなどによって大打撃を受け、失意のまま首相を辞任しています。
ただ、ナポレオン自身もエルバ島流刑になっています。
そのエルバ島のナポレオンに、1815年フォックスの配下で活躍していたジョン・ラッセルは訪問しています。そして、ナポレオンがエルバ島から帰ったときも、敵対すべきでないと演説を行ったりしています。
その後、1829年トーリー党は分裂し、1830年についにホイッグ党のグレイ内閣が発足します。
■②チャールズ・グレイの時代■
1830年イギリスにおいて、紅茶アール・グレイの名前で知られるホイッグ党のチャールズ・グレイ(グレイ伯爵、Charles Grey)首相になります。
この年はフランスにおける七月革命の年であり、自由主義的な気風が起こった年でした。
そして、国外の自由主義的革命において外交が荒れたため政権交代がおこり、グレイ伯爵が首相になったようです。
グレイ伯爵が属しているホイッグ党も自由主義的気風があり、アロー戦争や日英修好通商条約を経て1859年に成立した第二次パーマストン内閣のときに正式に「自由党」と改称します。
その自由主義的気風から1832年には、「選挙法改定案」が出されます。
中流以上の人々に選挙権を与え、新興商工都市を選挙区とした画期的な改革で、自由主義の時代に入り、ブルジョア支配の時代に入った一つのエポックとなる出来事です。
そしてこの選挙法改正にもっとも貢献した政治家が、バートランド・ラッセルの祖父ジョン・ラッセルです。ジョン・ラッセルは第一次選挙法改正では法案を起草した四人委員会の一人となっていました。
またこのチャールズ・グレイ内閣のときに、後にアヘン戦争やアロー戦争や日英修好通商条約などに関係してくるパーマストンが外相になっています。
■③メルバーン内閣■
1834年には、ホイッグ党のメルバーンが首相となり第一次メルバーン内閣が発足します。
この第一次内閣においてメルバーン首相がジョン・ラッセルを庶民院院内総務に推挙したことが国王ウィリアム4世の反発を招き、総辞職をしています。
その後、かつて小ピットの熱烈な支持者でもあったトーリー党のロバート・ピールが一時的に第一次ロバート・ピール内閣を築いています。
しかしすぐに1835年に第二次メルバーン内閣が始まり、この第二次メルバーン内閣のときにヴィクトリア女王が即位します(1837年)。その後、ロバート・ピールとヴィクトリア女王の争いともいえる寝室女官事件が1839年に起こったりして、メルバーンは女王の信任を得ています。
またメルバーン内閣においてもパーマストンは外相を留任しているのですが、メルバーン首相の妹がパーマストンと結婚していて浅からぬ繋がりがあったようです。またこの頃、パーマストンが主導してアヘン戦争が起こっています。
また第二次メルバーン内閣は、第一次アフガン戦争における壊滅的影響から退任することになっています。
■④ラッセル内閣■
メルバーン内閣の後、1841年には第二次ロバート・ピール内閣が発足し、その翌年1842年にはメルバーンは病に倒れ、ホイッグ党の庶民院はラッセルが指導するようになります。
一方、この第二次ロバート・ピール内閣のとき、南京条約が結ばれています。
そして1846年に穀物法でロバート・ピールに火中の栗を拾わせて第一次ジョン・ラッセル内閣が発足します。
ただ1850年には、チャーティスト運動が終息して、急進的な労働運動が一時影をひとめてゆきます。
チャーティスト運動は、1832年の選挙法の改正における選挙権が、国民の中流以上にしか与えられていなかったことをみて、ふたたび労働運動をはじめたものでありましたが、1848年の大示威運動を最後として政府当局より徹底的な弾圧を受けていたようです。
同時にこの頃は、イギリスの資本主義がもっとも繁栄した時代であり、この19世紀後半から、イギリスは自由主義の時代から帝国主義の時代に進みつつあったようです。
またイギリスは、ヨーロッパの諸国が、それぞれ同盟を結んで勢力の拡張をはかっていたとき、どちらの陣営にも与しないで、「光栄ある孤立」を唱えていました。
■参考文献■
※1…『ラッセル』金子光男1968.4.10清水書院
※2…Wikipedia「ジョン・ラッセル」